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日本憲兵正史

特設憲兵隊の創設

アイコン 1976
全国憲友会連連合会編纂委員会



 (序)憲兵の真使命は軍の健全なる擁護にアッ や。擁護といえば消 極的な侵害排除とも解されやすいが、要は軍をしてつねに、ある べき姿に徹せいしめることにあった。この立場から言えば、その軍の政治へのばく進に随伴したものであり、憲兵として遺憾この上もなういことである。
もともと憲兵は陸軍大臣の直轄するところ、その抑制の力にも限度があった。このことからいえば、その憲兵の権限も必ずしも
強大であったとはいえない。しかし、憲兵の干与しうる職域は軍事警察はもとより、一般司法警察、行政警察にも及び、その職域は各分野に亘って広がった.も し、憲兵が適宜適応、その警察力の発揮に遺漏するところなかりせば、あるいは敗戦前後のごとき、国民大衆の苦悩はある程度回避しえたかもしれない。・・・ (戦争犯罪人としての受刑は別にし て、ポツダム宣言は)地位階級のいかん に関係なく、憲兵経歴保持者は、全員ポツダム宣言第六項該当者、すなわち「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ず過誤を犯さしめたる者の権力及 び勢力」として1952年4月講和条約発効にいたるまで、約六年余公職から追放せられた。
憲兵に対する処分の峻烈苛酷なることは、他の兵種諸軍人に類例を見ざるところである。国民の憲兵を見る目もまた厳しく冷たいものがあた。
何がそうさせたのであろう。考えてみれば憲兵にも非はある。
軍の警察という権力の座にいたというだけではない。その軍は昭和激動期すでに政治制覇をなしとげて、この国を領導していた。この絶対権力に近い軍の警察と もなれば、そこでの憲兵のもつ威力はさらに強い。

・・・しかし、すべての憲兵がそうであったというのではない。
・・・あたかも権力悪の極限のように画かれ、かつ印象されていることは、特に極刑に斃れた戦友およびその遺族の方々の堪えがたいところである。

・・・本書は弁明あるいは頌徳の書ではない。

・・・(歴史の流れに)これに阿智する憲兵の動静、処置を功罪にとらわれることなく、常に憲兵本然の使命に照合しつつ叙述したのが本書である。
アイコン 古書で1万円から1万二千円前後で。実際には、図書館で見ることができる。
 
アイコン メモ
  侵略の証言(岩波書店)で は、関東憲兵隊の幹部の中国の戦犯管理所での証言により、この「日本憲兵正史」の記述内容を相対化して読むことができる。
田 辺敏雄氏の反論に応える/富永正三/産経新聞社『正論』97年11月号

重要なことは、「岸信介の後に座り実権をふるった古海忠之次長」のような「日本政府から派遣されて「満州国」政府のあらゆる役所・軍・秘密機関の高位高官 となったエリート」(戦 犯の手記はこのようにして生まれた/国友俊太郎 )による戦犯の証言により、人口国家「満州国」の政治、経済体制の仕組みが「関東軍国家」とし てあったことがわかってきた。

また、現在中国で進められている「発掘」(ソ連軍侵入で秘密書類の焼却が間に合わず、埋めらた秘密書類の文字通りの発掘が中国で進められている。)された 特務機関、憲兵隊書類の公開は、さらに実態を明らかにするであろう。

実態として、日本国家(または殖民地を含む旧来の大日本帝国)との相違点を大きく持っていたことである。その象徴として「モダン満州国の夢」に至ることも 想像に難くな い。 その上で、下記の「憲兵の近代化への渇望」も文脈を理解できるであろう。

下記の部分は、実は「登戸研究所」の 研究にも関わってくる部分である。
  第六分隊(思想・物理・化学・電気)の内容の実態は、登戸研究所の秘密戦資材なのである。登戸研究所の伴少佐の雑多な研究内容を産み出したものを理解する ためには、「満州国」とのつながりを理解するしかない。



 

アイコン 特設憲兵隊の創設
  (無線諜者検挙第一号)
昭和十三年三月、関東憲兵隊司令部は憲兵に特別無線教育を実施するため、新京の関東憲兵隊教習所に、隷下各隊から十名、朝鮮軍から二名、北支那方面軍から 二名、計十四名を集めて教育した。教習所所長は宇野恒雄憲兵少佐であった。
教育期間は約一力月であったが、満州国交通部無線技官の松井義正が開発した方向無線探知機を使って、無線探査の教育を実施した。教育終了時に、憲兵全員に EX三○の真空管と乾電池を便って、教育を加味した無線探知機をつくらせた。

教育を受けた者は、何らかの形で無線に関係のある憲兵であった。たとえば、ハルピン憲兵隊から派遣された大庭軍曹は、アマチュア無線の経験者であった。あ とは逓信省とか郵便局、または電機メーカーにつとめたこと
のある憲兵ばかりであった。
さて、関東憲兵隊司令部が、なぜ無線教習所を新設した
か、それには次の事情があった。

ソ満国境の事件は、何も戦略兵団の出動する大きな紛争事件ばかりではない。国境を越えてひそかに侵入する諜者の数も軽視できなかった。ところが、謀者を捕 えてみるとドイツ製や米国製の優秀な携帯無線を持っていた。いわゆる無線諜者である。しかし、憲兵には無線がラジオか短波かさえもわからない。これでは困 るということになって、まず、憲兵に無線の知識を普及させようと、十四名の憲兵教育になったわけである。また、これまで憲兵は捜査に見込捜査ばかりで、科 学的な捜査は行われていなかった。この面でも、ようやく科学捜査を重視するようになったことになる。こう書いてくると、いかにも憲兵首脳が科学に理解が あったようにみえるが、必ずしもそうではなかった。

熱心だったのは宇野少佐ぐらいだったかも知れない。

一方、教育を終えた憲兵は原隊復帰したが、ハルビンは満州でも最も謀略諜報の行われていた地域だったので、宇野少佐はハルピン憲兵隊に、特に無線探査の普 及教育を命じたのであった。
ハルピン憲兵隊で隊員の無線教育に当たったのが大庭軍曹で、自ら防諜班長となって基礎教育が終ると、班員を街頭で実地教育した。
「街を歩くときは慢然と歩かず、アンテナに注意しろ。アンテナ見たら、夜は使っているのではないかと考えてみろ」といった具合であった。

昭和十四年五月、第一次ノモソハソ事件が勃発、
六月に第一次ノモンハン事件となって拡大した。このときに憲兵隊司令部はハイラル、ハロンアルシャン、ソロン、三爺廟の四力所に、無線探査班を出動させ、 ソ連無線諜者の探知に当たった。ハロンアルシャンには大庭軍曹班、ソロンには細越曹長斑というように、各六名編成であった。
また、ハイラルでは川口武男憲兵曹長の指揮する川口班の無線探査の活躍で、ハイラル市街の雑貨店主ほか六名をソ連諜者として検挙した。家宅捜査すると、果 たして床下から無線機と暗号書が発見され、この諜者はソ連のチタ指令局と交信していたことが判明した。したがって、ソ連軍はこの無線連絡によって、ハイラ ルを中心とする関東軍の動向を、かなり諜報していたことが歴然とした。しかも、この男は表面では、かつて関東軍に多額の国防献金をして、表彰状までもらっ ていた親日派漢人であった。これにはハイラル憲兵隊も驚いた。

当峙、ノモソハン事件で小松原兵団が苦戦を強いられたとき、日本軍の軍事情報がソ連側へ流れていることを探知したハイラル憲兵隊は、無線探査班の出動を要 請したのである。川口班の岡野実一軍曹は、ハイラル市内の無線諜者を探索するために軍靴の底に銅線を張ってアースとし、小さな鉱石ラジオを耳につけて容疑 電波を追ったのである。

ハイラルのソ連諜者検挙は、無線探査班の無線諜者検挙第一号であるとともに、関東軍の参謀連中に相当な衝撃を与えたといわれる。司令部の暮僚は、これまで 無線探査に無関心同様であったが、あらためて無線探査の威力を思い知らされたのであった。ここにおいて、前年、宇野少佐が実施した一力月の無線教育がよう やく生きたわけである。関東憲兵隊司令部は、これを機会に関東軍司令部と協議のうえ、これからは憲兵にも無線以外に幅広い科学知識を与えて、従来の見込捜 査でなく、科学的捜査によって、防
諜ならびに犯罪捜査に貢献させようと、特設憲兵隊の創設となったのである。したがって、ハイラルのソ連謀者逮捕は、憲兵史を書き替えるほどの重要な事件と なったことになる。いずれにしても、この特設憲兵隊が大東亜戦争において、全作戦地域にわたって大活躍をすることになる。

(特設憲兵隊の創設)

満州事変以降、国内においても防諜意識は除々に向上しつつあったが、敵国の諜報謀略は年毎に科学的となって、日新月歩、その進歩は著しいものがあった。そ こでこれらの諜報謀略に対応すべく、昭和十二年官制の改正により、兵務局が 防諜に関する事項を掌握することになった。その
主な業務は、科学外諜、防衛並びに細菌戦等の研究訓練である。

細菌戦研究部隊は、後に満州国ハルピン市郊外平坊に移動し、関東軍防疫給氷部(通称部隊名を石井部隊と呼称)として、実戦に備え極秘に研究訓練を行ってい た。

ハルピン憲兵隊では防諜並びに軍事機密の保護と漏洩防止のため、坂本喜三郎憲兵准尉以下数名を石井部隊に派遣し、教育訓練に支障のないよう防諜に協力し た。
戦争には武力戦と秘密戦とがある。武力戦は一般軍隊が行い、秘密戦は憲兵、特務機関並びに特殊部隊がその任に当たる。秘密戦とは、謀報謀略を意味し、その 手段方法は、精到な教育訓練を終了した工作員を敵地に侵入させ、指令に基づく任務を、厳重な警戒取締網を巧みに遁れながら、秘密裡にかつ大胆に行動して指 命を達成しなければならない。
満州はソ連及び外蒙に隣接しているため、欧州方面よりシベリヤ鉄道を経て(満州里にて乗り換え)満州、朝鮮をを経由して、日本へ旅行する唯一の国際列車の 通過で、治外法権をもつ外交官、駐在武官、クリエル(伝書
使)の利用者が多く、また、一般旅行者についても、地帯を旅行する者には、警察官庁の発行する旅行証明書または身分証明書を所持しない者は、移動、旅行は できないという厳しい取締りを強化していた。これは秘密戦に備え、敵の諜報謀略員の潜入を防ぐためで、国際列車ならびに一般旅客列車には制私服憲兵が警乗 し、防諜に任ずるほか、容疑者に対しては厳しく偵諜し、最寄りの憲兵に引継いだ。

一方、国境各隊においては、ソ連より国境を渡河して侵入する工作員、あるいは現住民の連行、境界標移動等に対し、間道対策を強化して防諜に重点を指向して いた。ことに満ソ国境の東部正面、西部正面、北部の正面にお
けるソ連極東軍の領空侵犯は次第にその数を増し、ついには大規模な国境紛争が行われたのである。その主要紛争は、昭和十二年六月に北部正面に起こった乾含 子島事件、同十三年七月に東南部正面で発生した張鼓峰事件、同十四年に外豪正面に起きたノモンハソ事件は、張鼓峰事件とともに
最も大規模な事件であり、関東軍は多くの犠牲者を出したが、が、これらの事件は紛争ではなく、慎重な計画のもとに仕掛けられた、戦争であるといっても過言 ではない。その原因となるものは、国際外交が火花を散らすその背後で、各強大国の政戦略が巧妙に交錯して、自国の安定と利益を図る侵略的欲望にほかならな い。しかも、当時の国際間において、この政戦略的謀略に最もすぐれていたのがソ連であった、ノモンハン事件はその最もよい例である。

昭和十四年八月一日、ノモンハン事件の最中、関東憲兵隊 に特設憲兵隊が創設された。創立の趣旨は敵性諜報謀略に備え、無線探 査と科学捜査、鑑識によって原因を糾明し、あるいは検挙した諜報謀略員を培養して敵の企図を諜報し、軍の作戦行動を容易にするなど、その任務は時局柄極め て重要であった。

初代隊長は陸軍憲兵中佐山村義雄(31期)が任命され、部隊の本拠地を新京特別市寛城子東支鉄道管理跡(関東憲兵隊司令部より南方約四キロの地点)に設置 し、三力月間総合基礎訓練をしつつ、器材整備と実務訓練を開始し、共礎教育と技術の向上を図った。

当時の特設憲兵隊要員は、関東憲兵隊下より、科学部隊に適する憲兵准士官以下を選考推薦編成したのである。だが、無線関係を除き、科学に付いては殆ど素人 であるため斯界の学者を軍属教官として要請し、所要必須科目の科学教育を、初歩より専念修得させることにした。

主な学者は奉天医科大学毛利博士、新京医科大学橋本博士、名古屋医科大学小宮博士、新京大陸科学院より農学博士二名、現場写真および鑑識については、満州 国日系技官遊佐武治郎、写真学並びに一般写真は、満州航空の小坂信教、特殊カメラの操作を関東軍司令部兵技少佐中村一、映画撮影並びに映写技術については 満州国映画会社から、指紋については満州国冶安部指紋鑑識課の日系技官を、それぞれ軍属、嘱託教宮として招聘した。

教育は各分隊毎に基礎訓練から実務訓練に移行したのである。当初の教育訓練ぶりは、憲兵隊を脱してあたかも技術大学の観を呈し、受講
する憲兵は自分の年齢を忘れて懸命に勉強した。なかには中年に達した妻子ある憲兵も多かったが、科学部隊としての誇りと便命感に燃えて、よく学び苛酷な訓 練に耐えた。
三力月乃至六力月間の基礎訓練期間を終了した後は、いずれも優秀な学間、技術、鑑識眼を会得し、その進歩には嘱託教官も驚くほどであった。こうして、憲兵 による科学の総合威力を発揮する特設憲兵隊の要員が育成されたのであった。

他方、本部器材整備班長吉成道雄曹長と同班の斎藤正夫軍曹は、無電、法医、細菌、指紋、化学について、各分隊に必要な器材ならびに資材を、満州国はもちろ ん日本各地より集めた。当時、物資不足の折にもかかわらず、部隊の重要性を認めた軍中央部も協力を措しまず、短期間内に整備、教有訓練に支障のないように 配慮したのであった。


創立当峙の編成は次のとおりである。

昭和十四年八月一日(新京・寛城子)
特設憲兵隊隊長山村義雄中佐
副官印南武雄少尉
本部付滝山三男少佐
第一分隊長(無線探査)吉田文武大尉
第二分隊長(無線探査)喜岡安直大尉
第三分隊長(指紋)四宮祐二准尉
第四分隊長(法医・細菌)菅原三治郎少尉
第五分隊長(写真)(兼)官原三治郎少尉
第六分隊長(科学)亀井真清大尉


特設憲兵隊は以上のように六個分隊に編成され、それぞれ特種任務が与えられて、特別な教育、研究、訓練を行つてきた。その中で最も実戦的に活躍したのが、 第一分隊と第二分隊の無線探査である。先に、ハイラルの場合を例にとったが、後述の活躍は大東亜戦争全域にわたって、敵諜
者を探索して華々しい行動を示ずことになる。これも、すべて特設憲兵隊の第一分隊、第二分隊の出身者によって、さらに指導教育された後輩の活躍によるとこ ろが大きい。この意味からも、特設憲兵隊は憲兵史上最も宣視されるべき憲兵だったのである。そこで第一、第二の無線探査班は別項で述べているので、第三分 隊以下の内容を紹介しておく。

第三分隊(指紋担当)
万人不同と終生不変が指紋の特性である。わが国の指紋法は、明冶四十年、司法省では現行刑法に定められた再犯加重を行う場合、再犯者なることを何によって 証拠立てるのか、という点が問題になった。ところが、当時、ドイツの警察制度を視察研究して帰朝した平沼麒一郎(後の首相)の提案によって、昭和七年八月 十七日、司法省訓令で分類性を統一したが、これが日本において実施された統一指紋法である。すなわち、犯罪捜査および刑事裁判など、警察的に用いられる基 礎が確立した。そして憲兵司令部がこれに着目した。

一方、満州においては、満州事変後、すでに南満州鉄道株式会社が、労働者(主として満人苦力)の不正移動や賃金支払に当たり、誤払防止を目的に、日本にお ける指紋法をそのまま取入れて実施したのが、最初のことであった。
その後、満州国が独立、首都新京に指紋管理局が創設されたが、日本よ り多数の技術者を迎え、日本の指紋法に若干の修正を加えて実施したのが、満州国指紋法であった。
第三分隊(分隊長四宮祐二少尉)の任務は指紋の実用的処理および現場指杖の検出、採取の教育訓練であった。後にソ満国境全線および満州国主要都市におい て、住民および軍人、軍属の十指指紋を採取収集管理して、謀略防衛または各種犯罪の犯人割出しに利用されたことは、意外に知られていない。


第四分隊(法医・細菌)
第四分隊(分隊長菅原三治郎少尉)の任務は、法医学の修得と細菌戦に対処する研究および訓練であった。医学の教育訓練については、満州医科大学医学教室の 助教授泉正一、同助手照井二郎がこれに当たり、細菌につ
いては、細菌学教室橋本多計冶教授を委嘱、専門学校修得のため月問一週間程度の基礎訓練を実施した。また、関東憲兵隊司令部付小笠原軍医大尉の一般化学お よび基礎学の教育を修了した。さらに、昭和十五年二月には、満州医科大学に隊員全員を派遣、専門教育を受講させた。

同年五月には、ハルビソ郊外の平坊にある関東軍防疫給水部(第二七一部隊通称石井部隊)にも全員派遣し、基礎防疫学を修め、実戦に即した教育訓線を受け た。これらは軍人としての教育ばかりでなく、警察的鑑識並びに防諜に必要な防疫学を修得させたことになり、後の昭和十六年末に、満州第七三一部隊とともに、関東軍の科学戦部隊として重きをなすに至る。
研究成果としては、細菌戦に対する防衛対策、毒物検知、細菌の実体研究、毛髪による鑑別法などにみるべきものがある。


第五分隊(写真・筆跡鑑定)
第五分隊(分隊長管原三治郎少尉兼任)の任務は、司法、現場、防謀写真と筆跡鑑定であった。
当峙、満州航空株式会社は、関東軍の特種指定工場として、航空写真の撮影および地図作製を行っていた。その満州航空から小坂信教らが教官となり、写真学の 基礎、撮影、現像、焼付、引仲の初歩教育に当たった。
また、司法写真と鑑識には、満州国治安部分室第七課(写真)の遊佐武次郎を招聘した。教育は犯罪現場写真撮影(司法写真)の基本並びに、現場に遺留の指紋 撮影、顕徴鏡写真、赤外線フイルムによる望遠撮影、筆跡鑑定写真、印影真偽鑑定など、主として犯罪に基づく司法写真に重点
を指向した理論と、基礎並びに実務訓練をニカ月間実習させた。

最も異色だったのは超小型カメラと隠密尾行写真であった。関東軍司令 部第四課の中村兵枝少佐を教官として、過去における敵国の謀者が、諜報に使用した超小型カメラの研究は、特に実務的であった。
超小型カメラは、現在でも映画やテレビでよく見るチョッキのボタンにレンズを仕掛けたもの、ステッキにカメラを装置したもの、その他ライター型カメラ及び 写真分隊で考案試作した書籍に仕組まれた小型カメラは、まさにスパ
イ戦そのものの教育訓練であった。さらに小田原の富士フ イルムエ場で開発製造された赤外線フイルムの活用は、幅 広く研究訓練され、教育終了後、直ちに犯人の街頭連絡の 現場隠密撮影、立証などに利用された。写真については撮 影のほか現像、引伸し等あらゆる技術が可能なように、実 務的教育訓練を受けたのである。
 研究並びに実務的成果としては、関東憲兵隊隷下の重要 事件の記録写真撮影、暗黒下における赤外線利用による隠 密撮影法など、現在の技術氷準からみても勝るとも劣らぬ ものであった。

また、写真に関連して、印刷に関する基礎的学習も受け た。特に印刷物の活版、オフセットの見分け、宣伝謀略に 使用される伝単(宣伝ビラ)の紙質、印刷の区分等は、満 州航空印刷部の前田技師の指導によった。

 第六分隊(思想・物理・化学・電気)
第六分隊(分隊長亀井真清大尉)の任務は、思想対策お よび謀略対策、事件、事象に対する科学的究明、物理、化 学、電気に関する学修、教育、訓棟であった。 教官または講師には、満鉄大連中央科学研究所の綿貫博 士、満州大陸科学院の四方院長、丸山捨吉博士、吉村博 士、有馬博士、山崎枝官らが委嘱されて教育、研究、指導 に当たった。

教育研究内容は、この隊はまことにバラエテイーに富ん でいる。まず、秘密インクの連鎖的検出と処理方浅、封書 の開封技術と糊の研究、番犬、軍用犬に対する制犬処理 無色、無臭、無味の睡眠薬紙幣謀略にともなう鑑識作 業、容疑者の携行品の検査分析などであった。 この分隊は化学実験室、物理室、治金室、電気室にあら ゆる研究器材を整備し、幅広く研究、訓練を行っている。

 これが後に特設憲兵隊から分離されて、関東憲兵隊司令部科学偵諜斑(通 称司令部第四班)となる。

昭和十九年五月二十五日、関東憲兵隊の編成改正によ り、第三分隊以下第六分隊を関東憲兵隊司令部に吸収し、 その名称を関東憲兵隊司令部科学偵謀班とした。この編成 改正については、時の関東憲兵隊司令官三浦三郎中将の 極的な方針による。

また、無線探査班の第一、第二分隊は、同時に関東憲兵隊無線探査隊となった。さらに、昭和二十年八月一日の編成改正により科学偵諜班は、関東軍特別第一警 備隊司令部の編制内に入り、斑名は従来どおり科学偵諜斑(通称第四斑)として、新京特別市寛城子に置かれた。第一警備隊司令部は奉天に位置し、新京以南の 地域をその管轄下に置いた。また、関東憲兵無線探査隊も同峙に関東憲兵隊司令官の隷下を離れ、第一特別警備隊無線探査隊となった。ちなみに、第二特別警備 隊司令部は牡丹江に、第三特別警備隊司令部はチチハルに設置された。最後に関東軍第一特別警備
隊特設憲兵隊の編成を紹介しておきたい。


 特設憲兵隊無線探査班・科学偵諜班・編成表昭20年8月1日 本部
(78名)
部隊長 憲兵中佐 松永光治
副官  憲兵少尉 林幸男
戦務課長憲兵中尉 雨宮初二郎
教育隊長憲兵少尉 西田晴夫
第一中隊
(113名)
中隊長 憲兵大尉 村井博
ハルビン派遺隊長 少尉 久保田捨己
大連派遺隊長 准尉 坪内 章一
奉天派遺隊長 少尉 神津幸久
東奉天分遺隊長曹長 村松休平
安東分遣隊長 曹長 柴崎慶三

第二中隊
(75名)
中隊長 憲兵大尉 宮崎末男
牡丹江派遺隊長 少尉 西原貞夫
佳木斯分遺隊長 軍曹 石田金一
延吉分遺隊長 曹長 張替次郎

第三中隊
(72名)
中隊長 憲兵中尉 木村欣一
チチハル派遺隊長 少尉 鷹羽秀三
ハイラル分遺隊長 曹長 山中一男
 科学偵諜班
(100名)
班長 憲兵大尉 長島恒雄
指紋 憲兵椎尉 矢口正
法医 憲兵准尉 山田弘
写真 憲兵少尉 村越清
化学 憲兵少尉 鎌田光次




(部隊の命運を賭けた捜査)
関東憲兵隊特設憲兵隊、通称八六部隊は、昭和十四年十月、第一回の研修生を送出すと、各憲兵隊から優秀な憲兵を指名で引抜いて、三年間の教育を実施してい た。これが各憲兵隊長の反感を買ったのはやむを得ない。ところが、各憲兵隊長の合同会議の席上、「八六部隊は三年間教育をするといっていたが、一体どんな 成果を挙げたのだ」と、八六部隊長山村大佐が一斉に吊し上げられた。関東憲兵隊の全予算の半額をつぎ込み、目下教育中です、ではとおらない。相手が納得し なかったのだ。山村大佐は八六
部隊の真値を間われ、涙をのんで帰ってきた。

これでは、何か一つ早急に成果を挙げなければ、部隊が解散させられてしまケ。そこでソ連諜者の最も多いと思われる牡丹江地区で、教育を兼ねて、何とか無線 諜者を挙げようということになった。
当時、部隊には松井技官の製作した自動的電探機があった。これは回わしておくと、大きな電波の場合、キャッチして自動的に記録して止まるという便利なもの であったが、借しむらくは容疑電波の識別ができない。そこで古屋
正雄伍長が、一週間で独特の手動式方向探知機を開発して三機製作し、演習で実験して成功を確認したうえ、指揮斑以下探査各斑十五名が出動した。

昭和十六年五月七日、新京を出発、牡丹江に到着すると、現地憲兵隊の指揮下に入って探査活動を開始した。なお、出動した雨宮班(雨宮初二郎准尉)は、妻烏 温軍曹以下六名であったが、七月十五日に一且新京へ引上げている。次期活動に備えるためである。
当峙、関特演の最中だったので、満州国内の軍事輪送は激しかった。すると当然無線諜者の行動も活発となる。そこでこの好機遁すべからずと、ぱかりに、牡丹 江地区を選んだのである。
牡丹江市内において容疑電波を探査した結果、まず約一力月の問に、金曜日の午前二時が発信時刻であることが判明したが、もう一歩のところで交信が停止し、 相手の故障か、探査斑の行動を感知されたかを検討したが、古屋軍曹は諜者側無線の故障と判断して時期を待った。約一力月後、再び怪電波は発信を再開した。 同じ符号で同じ周波数である。ここにおいて満を持していた探査班の活動によって、昭和十六年七月二十五目、ソ連無線諜者張文善(当峙三十七歳)以下七名が 検挙された。
張文善は牡丹江周辺の軍情、航空隊の演習状況、第三軍の配備状況などを調査通報していた。
なお、張文善検挙後、ソ連はモスクワの無電通信学校教官劉某を、延安経由で新京に密派し、優秀な米国製無線機を使って諜報活動をさせたが、交信回数が頻繁 なため、八六部隊の無線探査班に捕われた。また、終戦までに逮捕された諜者数と、指令局および諜者との関係は下図のとおりである。
また、張文善事件には後日談がある。このときに雨富班として出動した妻鳥軍曹は終戦後復員して郷里愛媛にあったが、昭和21年3月24日「調査要求あり。 四月一日までに出頭すべし」の電報を受けて出頭すると、牡丹江の張文善事件について聴取された。この件ばかりではないが、米軍は戦後も対ソ情報を収集して いたようである。さらに山村大佐や川口中尉らも、ソ連諜者の無線探査について米軍に聴かれている。






 
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