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シンガポール・マラヤ反日華僑の粛清 |
第2野戦憲兵隊(975ページ) 1942年2月19日、シンガポール占領直後、第25軍はマレー半島及びシンガポール内反日華僑の粛清を開始した。 その部署は次の通りであった。 一 マレー半島 第5師団 師団長 松井 久太郎中将 ニ シンガポール市外 近衛師団 師団長 西村 琢磨中将 三 シンガポール市内 昭南警備隊 司令官 河村 参郎少将 昭南警備隊のうち憲兵兵力はシンガポール攻略時と同じである。憲兵約200名、補助憲兵二個大隊、戦車、装甲車隊、各一個隊。 シンガポール攻略前、第25軍憲兵隊長大石中佐はクルアンにおいて、軍参謀長鈴木宗作中将より 「軍はシンガポール占領後、華僑の粛清を考えているから、相応の憲兵を 用意せよ」との指示を受けた。 大石憲兵隊長は粛清と聞いて、このとき、これは大変なことになった、と部下に漏らしている。 第二十五軍司令部は華僑粛清のため、新たに昭南警備隊を編成し、司今官には第五師団の第九師団長河村参郎少将が任命された。粛清の命令は純然たる作戦命令 で、掃蕩作戦として発令された。部署は前記のとおりマレー半島を第五師団、シンガポール市内を昭南警備隊、市外を近衛師団が担当した。そこで軍司令部が粛 清命令を出した要因をたずねてみる。 軍司令官以下司令部首脳部も現存せず、かっ命令提案者も判明しない現在、粛清の真意を把握することはまことに困難であるが、おおむね次のようなことであっ たと推定される。 1、マレー、シンガポールは前記のように華僑の抗日意識は極めて撒烈にして、抗日分子が多く、ことに作戦中彼らは総力を挙げて抗日行動に出た。 2、シンガポールに華橋を主とする義勇軍二個旅団があったが彼らは捕虜とならず、英軍の降伏とともに解散し、巧みに市民に混入した。 3、軍は次期作戦のため近衛師団をスマトラヘ、第十八師団をビルマへ、第五師団は南西方面に転用する予定であり、マレー、シンガポールの警備兵力が極端に 減少する予定であった。 4、支那事変においては、警備兵力の薄弱な部隊は、しばしば便衣隊等の襲撃を受け苦戦をした例は多い。 この苦い経験が、華僑は油断ができないという警戒心となって高潮していた。 第二十五軍憲兵隊長大石正幸中佐は軍命令の内示を受けた際、検問実施期間十日間の意見具申をしたが、作戦上の要求から三日間に短縮され、二月二十日より実 施の命令であった。 二月十八日、この命令を受けた第二十五軍憲兵隊管下の各 隊は、自隊警備地区内に適当な広場を選走し、居住華僑に対して、二月十八日より糧食五日分を携行のうえ、指定地に集合するように布告指導した。 当時、マレー半島よりシンガポールに避難して来た華僑を加え、市民は約七十万人とみられていた。この多数を、小数兵力の憲兵が三日間の短期間内に、言語不 通、地理不案内のまま、いかに命令を実行するかは実に難問題であった。そもそも無理というものである。 そこで憲兵首脳は鳩首研究の結果、次のような実施要領を決定した。 1、現地人を検間に利用すること。 2、名簿を基準とすること。 (注・作戦中イポーで入手した抗日団体名簿に、事前調査並びに探偵局、警察、救出邦人の進言により、名簿を作成交付した) 3、老幼、婦女、病人を先に検問すること。 4、共産党員、義勇軍、ゲリラ党加盟者は特に厳重に調査すること。 5、無頼漢、前科者等は、現地人の証言と警察、刑務所の記録を参考とすること。 6、指定地域に集合した後の空家は、適宣検索すること。 7、検問にバスした者には良民証を交付す。 検問の要領は、検問所を三力所つくり、第一検問所には覆面した現地人協力者十数名を配置し、検問者を一列にして通過させ、その協力者に該当者を指摘させ た。第二検間所では該当者を例外にし、別所で憲兵調査、第三検問所では、第二検問所を通過した者をさらに検間して、異常のない者は後に良民証を交付した が、良民証は準備不足のため充分でなかった。 老幼、婦女の検間は手際よく行われたが、検問が長びくにつれ不満、反感をもち、憲兵を罵倒する者もあった。こうした検問を実施した結果、義勇軍、無頼漢、 前科者等はおおむね補捉できたが、特に共産党員、抗日運動の幹部は逸した感があり、また、検問が短時日のため、その選別は因難を極めた。しかも取調べに当 たって現地人を利用したので、玉右混淆の嫌いを免れなかったのは事実である。 二月二十三日、選別者を補動憲兵をして厳重処分にせよ、という命令が車司令部から届いた。明らかに命令である。驚いた 各憲兵分隊長は、 1、刑務所に監禁して充分に調査した後に処分する。 2、やむを得ぬ場合には島流しにせよ。 と、この二項の意見具申を行った。 大石憲兵隊長も横田憲兵中佐も、各分隊長と同意見であった。そこで大石憲兵隊長から警備司今官や軍司令部に意見具申したが、これがついに容れられなかっ た。河村参郎中将の遣署「十三階段を上る」にも、「私の質間に対し、鈴木参謀長は、本件は種々意見もあるだろうが、軍司令官においてこのように決定せられ たもので、本質は掃蕩作戦であるとの応えで、これに服せざるを得なかった」, とある。 こうして軍司令官の命令による反日華僑粛清は、補助憲兵によって実施された。 軍はこの戦勝により抗日拠点を覆滅し、華僑反日勢力に一撃を加えようとしたのであったが、この粛清には大変な力の入れ方で、軍作戦主任参謀辻政信中は、各 検問所の指導に廻り、「シンガポールの抗日勢力を一掃するのだ。憲兵は何をぐづぐづしているのか」と各憲兵分隊長を激励して歩いた。 また、たとえ冗談にせよ、「シンガポールの人口を半分にするのだ」などと発言して憲兵を驚かせた。 この粛清については、憲兵は初めから消極的な嫌いがあった。すると軍参謀朝枝繁春少佐は、わざわざ早朝に憲兵隊本部を訪れ、昂奮のあまり軍刀を抜き、 「起きろ。憲兵はいないのか」と怒鳴り、さらに、、 「軍の方針に随わぬ奴は、憲兵といえどもぷった切ってやる」 などと憲兵に対する嫌がらせや強引な要求をし、指導をした事実もあった。 戦勝の勢いと昂奮も加えて、当時の軍司令部そのものが、以上のような強力な指導態勢にあったので、厳重処分をした憲兵隊の人員報告も、実は各隊いずれもか なり水増し報告をしたため、憲兵隊本部もこれに倣った。巷間、処分人員は四、○○○人または五、○○○人とも伝えられ、終戦後の戦犯裁判の検事側の申立も 同様であった。しかし、華橋協会の調査でも実数は三、○○○名に満たない報告であり、また戦犯裁判中、弁護側の収集した情報は一、○○○名足らずであっ た。要するに、処刑された正確な人員は到底把握し難いが、昭南響備隊分を合算しても、一、○○○名前後、いくら多く見積っても二、○○○名に満たないのが 真相であろう。なお、この検問で摘出した者のうち、爾後の軍政に協力を誓った華橋の大物、義勇軍幹部等二十数名は、一応監禁したものの、軍政協力を条件と して釈放した。これらの者はいずれもよく軍政に協力し、あるいは憲兵の行った共産党の帰順工作にも協力した。次にこの事件が及ぼした影響を反省してみる。 華橋粛清の結果、シンガポール市内外の治安は極めて良好となり、これまで白人が立入りに危険を感じた地域も、単独の軍人、軍属や目本人が平気で出入できる ようになり、全く危険もなく、日本の内地となんら異るところはなかった。しかし、この粛清弾圧は、宰橋にはなはだしい怨恨を残した。ことに共産党の巧妙な 宜伝材料となり、マレー半島は共産ゲリラ隊の巣窟となって、治安上の癌となった。 また、軍政上にも大いに悪影響をもたらすことになった。いわゆる強圧による軍政は施行できたが、住民の真の協力は得られなかった。粛清された享華僑の遺族 は骨身に徹する怨恨を残したことだろう。 戦後、この犠牲者のために「血債の塔」が建てられ、犠牲者の慰霊と日本軍の暴虐さを示す怨念の塔となった。その後わが自衛隊の練習艦隊がシンガポールに寄 港し、「血債の塔」に花輪を捧げようとしたが、現地華僑によりにべもなく断わられたという。 大東亜戦争下、シンガポール攻略は戦略的にはいくつかの明るいエピソードも残しているにもかかわらず、そのことを書けないほど遺憾な粛清事件であり、この 事件は大東亜戦争史上一大汚点となった。 戦後約三十年を経た現在、当時の真の責任者をあぱいたとしてもどうにもならないが、事件処刑の執行者として憲兵への非難が強かっただけに、今だからいえる こともある。 最後に事件の発案者をたどってみる。これは辻参謀と大石憲兵隊長の共同発案ではなかろうかという説が現在も濃い。なるほど両人は同郷ではあったが、実はそ れほど視密な関係はなかった。むしろ大石憲兵隊長は軍司令官山下将軍の信頼を受けていた。さらに大石中佐がクルアンにおいて、鈴木軍参謀長から粛清の内示 を受けており、検問中も参謀副長馬奈木敬信少将および辻参謀が、憲兵のやり方は手ぬるい、と現地を激励して廻った事実からしても、単なる辻、大石の提案と も考えられない。 事実、作戦中、華僑の通敵行為によって英軍側は日本軍の作戦行動を知らされ、見事な作戦、攻撃も加えている。したがって、このことによる日本軍の犠牲も少 なくなかった。戦争の可杏はともかく、一且開戦となった以上、やはり華僑は中立でなければならないのが自然のことであろう。戦時中、華僑の中にも敢えて戦 争に介入せず、中立を守りとおした者も多かった。日本軍への協力も反抗も、もとより華僑の自自かも知れないが、いずれにせよ軍事情報の提供などを始め戦争 に介入した者は、必ずその影響をこうむるのも当然である。戦後、日本軍に協力した理由によって、漢妊として殺害された華僑も多かつた。 シンガポール攻略戦に先立ち、軍首脳が華僑の反日行動を予想したのは当然であるが、逮捕した華橋を処分するには、やはりそれなりに納得できる証拠や法的手 続が必要である。不満足な調査によって処分を急いだことは、何といっても軍の責任を免れることはできない。措しまれるのは、軍上級幕僚の中に、職を賭して も正義を貰く真の勇者がいなかったことである。 憲兵は憲兵学校において必ず国際法を始め多くの法律を学んでいる。したがって裁判や刑の執行については、軍司令官以下の幕僚よりはるかに専門家であた。だ からこそ、華僑粛清に初めから消極的であり、処刑には疑問をもっていたのである。しかしながら、命令によって刑の執行に当たったため、敗戦後、憲兵はこの 事件の責任を負わされ戦犯の筆頭にされてしまった。憲兵の戦犯のほとんどはこのような例が多い。さらに憲兵の悪名は、いまもなおこの種のものから払拭され ていないのは、まことに残念なことである。 事件の戦犯裁判 この事件の戦犯栽判は、昭和二十二年三月上旬より、シンガポール公開堂で民衆罵倒の中で、まるで観劇のような状態で開始され、四月ニ日に判決がいいわたさ れた。命令行為は一切認められず、次のような判決であった。 終身刑(後に蘭印裁判で死刑)中将 西村 琢磨 絞首刑 中将 河村 参郎 絞首刑 大佐 大石 正幸 終身刑 大佐 横田 昌隆 中佐 城 朝竜 少佐 大西 覚 大尉 久松 晴治 (到着が遅れたため分離裁判)少佐 水野 錠治 なお本件関係者中、土園美治大尉は未逮捕のため裁判を免れ、合志幸祐大尉はすでに他事件のため死刑の判決を受けていたので、この裁判から除外された。だ が、この裁判が責任将校だけにとどまり、補助憲兵や憲兵准士官以下に 及ばなかったのは、せめてもの慰めであった。 |