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日本憲兵正史

不良在支邦人の悪徳行為

アイコン 1976
全国憲友会連連合会編纂委員会



 (序)憲兵の真使命は軍の健全なる擁護にアッ や。擁護といえば消 極的な侵害排除とも解されやすいが、要は軍をしてつねに、ある べき姿に徹せいしめることにあった。この立場から言えば、その軍の政治へのばく進に随伴したものであり、憲兵として遺憾この上もなういことである。
もともと憲兵は陸軍大臣の直轄するところ、その抑制の力にも限度があった。このことからいえば、その憲兵の権限も必ずしも
強大であったとはいえない。しかし、憲兵の干与しうる職域は軍事警察はもとより、一般司法警察、行政警察にも及び、その職域は各分野に亘って広がった.も し、憲兵が適宜適応、その警察力の発揮に遺漏するところなかりせば、あるいは敗戦前後のごとき、国民大衆の苦悩はある程度回避しえたかもしれない。・・・ (戦争犯罪人としての受刑は別にし て、ポツダム宣言は)地位階級のいかん に関係なく、憲兵経歴保持者は、全員ポツダム宣言第六項該当者、すなわち「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ず過誤を犯さしめたる者の権力及 び勢力」として1952年4月講和条約発効にいたるまで、約六年余公職から追放せられた。
憲兵に対する処分の峻烈苛酷なることは、他の兵種諸軍人に類例を見ざるところである。国民の憲兵を見る目もまた厳しく冷たいものがあた。
何がそうさせたのであろう。考えてみれば憲兵にも非はある。
軍の警察という権力の座にいたというだけではない。その軍は昭和激動期すでに政治制覇をなしとげて、この国を領導していた。この絶対権力に近い軍の警察と もなれば、そこでの憲兵のもつ威力はさらに強い。

・・・しかし、すべての憲兵がそうであったというのではない。
・・・あたかも権力悪の極限のように画かれ、かつ印象されていることは、特に極刑に斃れた戦友およびその遺族の方々の堪えがたいところである。

・・・本書は弁明あるいは頌徳の書ではない。

・・・(歴史の流れに)これに阿智する憲兵の動静、処置を功罪にとらわれることなく、常に憲兵本然の使命に照合しつつ叙述したのが本書である。
アイコン 古書で1万円から1万二千円前後で。実際には、図書館で見ることができる。
 
アイコン ポイント
  岩波新書:日中アヘン戦争/江口圭一  

「日本は日中戦争化に国策として公然と遂行するにいたる」とし、「満州国の専売制など を別として第1次世界大戦期から満州事変期の日本によるアヘン・麻薬の密造, 密輸,密売は,現地の日本軍が関与したり保護を与えたことはあっても,全体とし て見れば,悪徳企業や不良日本人の私的な非行であり,犯行であった」としながらも、満州国,華北を主な舞台としてアヘン・麻薬によって中国を大規模に汚染していた 満州事変期を明らかにしている。

引用された、南満州製薬株式会社/山内三郎「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」では
日本のヘロイン製造販売業者に対しての日本軍、とくに憲兵隊から渡された「安導券」は、かれらにとって全く何者にも変えがたい宝であたっといえるだろう。その保護がなければいかに満州・シナの官憲が弱腰であったからといって、 あれほど安全な商売をやっていけるはずはなかった。
ヘロイン商売で上がる利益を何らかの形で軍に還元することを考えた彼らは,直接現金を寄付するかわりに,さかんに飛行機を買って これを献納した。
軍人の中には部隊将兵の慰安という名目で,直接ヘロイン屋のところにやってきて,寄付を申し付けるチャッカリ屋もいた。こうして狐と狸は手に手を取り合って大陸に魔手を伸ばしていったのである。

山内によればヘロインの製造から大卸,中卸までは日本人が受け持ち、小卸しから密売人までの販路は 朝鮮人の仕事であった。

また山東半島,済南での状況も豊富な文献調査から明らかにしている。
プロレタリア作家/黒島伝治「武装せる市街」1930
武器を扱う商売が硬派だった。そして、アヘン,モルヒネ,コカイ ン,ヘロイン,コデイン等を扱う商売が軟派だった。すべてシナ人相手に商売で ある。邦人たちはたいてい、この軟派を商売にして。饅頭屋,土産物屋,時 計屋,骨董屋などの表看板は,文字通り表看板にすぎなかった。・・・そんな商売をやる 人間がここには一千人からいた。

と引用し、さらに関東庁事務官藤原鉄太郎「アヘン制度調査報告」1923の
「済南の日本人ニ千人、過半は禁制品取扱者なり」と記載している

日中アヘン戦争では
登戸研究所「贋札製造」の上海の責任者であった阪田誠盛(阪田機関)は、満鉄出身で関東軍の公認のもとに 阪田組を経営し、熱河省承徳と北京間に自動車運輸を行ない、熱河省産アヘンの天津向け密輸を行なっていたが、さらに察東事件1935/12後には 張家口に阪田組の支社を開設し、従業員170名でヘロインの製造を開始した
としている。

戦後「こういうような人々が計画的に、つまり軍国主義的な、国家主義的な計画を実行するために、軍資金を集めるための運動がなされておつたということが、これによつて明白であります。そこで特に最近いろいろと原因不明の奇怪な事件が起つておる。たとえば下山事件だとか、あるいは今度の三鷹事件だとか、松川事件だとか・・・」「どうもこういう地下組織の連中のやりそうなことだという趣旨のことを言つておる事実があるのであります」 第006回国会 法務委員会 第8号 昭和二十四年十一月十九日(土曜日)として、「こういう密貿易から、地下組織を通じていろいろな軍資金が出て・・・」と「その軍資金におどらされて、いろいろな原因不明の事故や事件が引起される・・・」 「約四億円ばかりの砂糖の密貿易」に成功したという「海烈号事件」で名前が出てきた、「支那通と言われて今度の戦争に協力した戦争犯罪人的な人物」坂田誠盛のことである。
事件は1949/8/17で、「日本側の被疑者は合計六名でありまして、その氏名は阪田誠盛、三上卓、板垣清、橋本武、志間忠兵衞、大窪謹男という人であります。」と国会では報告されている。この時点で「これは占領軍の軍事裁判所で管轄するのであるというふうに、具体的の事件について認定いたしました事項につきましては、やはり日本側には裁判権の行使が禁止されているわけでございます。従いまして、現段階におきまして海烈号関係について検察庁が捜査をするということは、穏当でないとわれわれは考えております。 」「捜査は、日本側では全然やつておりませんで、占領軍側の横浜第二公安司令部において担当いたしております。その後本人たちの身柄につきましては、阪田は保釈金百万円をもつて在宅になりましたが、同様百万円で在宅となつた中国人の劉というものが逃走した関係で、その保釈を取消され、他の者と同様現在勾留されておるもののようであります。」 と政府は逃げ腰である。

この「海烈号事件」は、「大きなものになつて参りますと、進駐軍が直接自分の方の事件としてやるものもあるわけであります。例えば先般海烈号の事件、いわゆるこういうふうなものは連合国の方で船、貨物もろともに処分をしまして、私の方では干與しないということになつております。」と処理が行なわれたらしい。 第007回国会 地方行政委員会 第8号 昭和二十五年二月三日(金曜日)

これは戦後裏面史では知られていることなのであるが、正統派の研究者にとっても見過ごせるものでもない。国内の資料によるだけでなく、アメリカの情報公開( 資料公開)によって、明らかにされるであろう。

アイコン 不良在支邦人の悪徳行為
  昭和十五年五月十八日、陸軍中央部は「対支処理方針」を決定した。その方針は、政、戦、謀略を統合強化して、昭和十五年末までに重慶 政権を屈伏させる・もし不成功の場合は、情勢の如何にかかわらず長期解決方策へ転換する、というものであった。
この頃、支那派遣軍は第十一軍をして、支那第五戦区軍主力を、漢口の西方にある揚子江の要衝宜昌付近に圧迫中であった。六月十二日、ついに宜昌を攻略し た。宜昌は航空機の重慶爆撃には絶好の中継地であった。こうして、日本陸海軍機の重慶爆撃は猛反復され、重慶政府内の抗戦、和平派の分裂が激化し、蒋介石 総統は最大の危機を迎えたのであった。
支那事変史を顧みると、この時期に堂々と寛大な条件で和平を求めたならば、事変の解決に成功したかも知れないといえる。

かって参謀本部作戦課の荒尾興功少佐は、南寧攻略時に次のように考えていた。「支那事変の解決は、武力をもって重慶、成都まで席捲するか、支那本土から撤 退するか二通りしかない。しかるに、大進攻作戦は対ソ戦備のため余力がなく、中央部の空気上望みがななかった。
当時、英国側の斡旋で、北支の一部と満州とを保持するだけで、他の占領地から撤退すれば、時局解決の見込みがあるとの判断もあったが、大陸に進出したわが経済力、政治力及び特殊権益の確保を切望する官民一体の権益 主義的世論の力は、軍の意志をもってしても、支那本土からの撤退はでき得ないものと統師部は考えていた。
従って、中途半端な施策ではあったが、補給路遮断作戦が、英仏対独戦に突入した機に乗じて企図された。北部仏印からの援蒋をことごとく遮断することが目的 だったが、仏国の情勢もそれほど熟していないので、中間目標として南寧を占領し、これを北部仏印への施策の跳越台にしようと考えられたのである」(「大本 営陸軍部」I)

以上の中で注目すべきことは、占領地に生れた特殊権益などの経済力、政治力である。特に事変下最も害をなした者が、支那大陸へ渡った傲慢な一旗組の邦人や利権屋であった。これらの人々は時勢に便乗し、軍の権威を 巧みに利用して、大都市繁華街の一角を不当に占め、その専横さは目に余るものがあった。これらは戦火を逃避した支那人の店舗などを、その留守中勝手に占有 し、持主が帰って来てもあれこれといいがかりをつけて返さない。しかも、多くは無料に等しい家賃を払って居直る始末であった。また、合弁会社なども名目の みで、多くは内地からの邦人が、その権利、利益を独占してはばからなかった。こういう輩に限って、直ぐ神社や思霊塔をつくりたがる。これらの人々の無神経 な思想が、どれほど支那民衆の反日感情を刺激したかわからない。このような連中が築 いた財産などは、権利でも何でもないのだが、さりとて軍が撤兵すれば財産を失い、支那民衆の報復を受けるのは必至である。軍は彼らを護って やらなければならない。軍の和平工作の妨害となったのは、まず、第一にこのような人々であったことを忘れてはならないだろう。

事実、総軍では、不良在支邦人の悪徳行為に苦慮して、その取締りを憲兵にもやらせているが、とても隅々までは及ばなかったのである。そして後の大東亜戦争 が避けられなかった原因の一つに、米国が要求した支那大陸からの全面撤兵がある。すると、支那へ渡ったいまわしき日本人の行為が、間接的に軍部に大東亜戦争への道を選ばせたものとい えないこともないだろう。もちろん、このことだけが開戦の原因ではないが、その責任は決して軽くはないのである。






 
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