![]() 名誉毀損 の法律実務 佃 克彦 弘文堂2005 東京弁護士会 人権擁護委員会/日弁連 人権と報道に関する調査研究委員会 名誉毀損裁判、プライバシー侵害裁判への高額賠償判決が横行する時代(「噂の真相」の停刊理由のひとつになってしまったが)にあって、実務家の側から多数 の判例分析を引用し詳細に解説。 免責事由・真実性・真実相当性の抗弁と立証責任 「名誉毀損の免責自由を考える場合、やはり名誉毀損法理が治安維持の機能を有していたという歴史的背景を踏まえずにはいられない。いかに名誉毀損にあたろ うとも公的な言論は絶対に正当化されなければならないのであり、免責事由はかかる公的言論の自由を保障するものでなければならない。 「ホントのことだからいっていいじゃないか?」 「ホントだと思ってしまったのだから仕方ないじゃないか」 公的言論の自由を保障するためには、広く免責を与える必要があるが、っかる観点から言うと、現在の真実性,真実相当性の抗弁が表現の自由を保障していると いえるかはかなり疑問である。 特に真実性,真実相当性の抗弁の主張立証責任を常に表現者側が負うという点は表現者(メディア)に過重な負担であるといえよう。 記事に書かれた側は、書かれた記事の実物を甲1号証として証拠提出して争えば、あとは表現者(メディア)側で記事の真実性等を立証するのを待っていればよ いわけであり、書かれた側は提訴するだけでメディアに対し十分なプレッシャーを与えることができるのである。かような負担を考えてメディアが公人に関する 報道に萎縮することを私は恐れる。 第1部 名誉毀損の成立要件 第1章 概論 第2章 各論別(報道媒体、匿名報道、少年事件、モデル小説 第第3章 損害論 第4章 「損害」、賠償、金銭以外の救済手段 第2部 名誉毀損の免責要件 第1章 真実性,真実相当性の法理「公共の利害に関する事実」の意味、目的の公益性、「公人」、真実性、立証責任の転換 第2章 配信サービス 第3章 公正な論評の法理 第4章 現実の悪意の法理 第5章 言論の応酬の場合の免責の法理 第6章 正当業務行為 第7章 被害者の承諾 第3部 名誉毀損の被害対策に関する諸問題 第1章 報道被害 第2章 報道被害救済のための各種対策 例えば、弁護士業務に関する事例として 弁護士は「依頼者に委任された法律内容が公序良俗に反するなど明白に違法な場合、あるいは依頼内容の実現が違法な結果を招来することにつき弁護士が悪意ま たは重過失であった場合等例外的な場合を除き、依頼者の依頼で行なった行為は、正当業務行為として違法性が阻却されるものと解するのが相当である」 そのうえで、名誉毀損行為についても「特に、弁護士の業務の性質上、依頼者と利害の対立する立場にあるものの名誉,信用に抵触することになる場合はすくな くないのであり、かかる場合でも弁護士としてのその任務を尽くす必要があるのはいうまでもない」「通知の必要性があったこと並びに通知の内容、手段及び方 法が相当なものであると認められるときは、正当業務行為性を失わない」東京地裁1993判例時報1492号。 訴訟における弁護士の弁論では 当然、「訴訟においては弁論主義・当事者主義を基本とする民事訴訟では著しく不適切な表現内容、方法、態様で相手方の名誉を害する場合は、社会的に許容さ れる範囲を逸脱しない限り違法性阻却が成立する」のであるから、この場合、被告側が抗弁として免責自由を主張立証するのでなく、 名誉毀損を主張する原告側が「「著しく不適切な表現内容、方法、態様で相手方の名誉を害することを意図し、虚偽の事実または当該事件と関係の無い事実を主 張し、または意図しなくても、相応の根拠の無いことを、社会的に許容される範囲を逸脱し、訴訟遂行上の必要性をこえて主張した」ことを主張・立証しなけれ ばならないこととなっている。 虚名的名誉の保護 竹田稔「名誉・プライバシー・企業秘密侵害の法律実務」1976では虚名保護の必要性について 「虚名であるとしても名誉が否定されるならば、覆される当人の生活に大きな影響を与えるだけでなく、社会全般に同様をもたらす危険がある」とし「法の社会 秩序保持の機能」の所産とする。 しかし、名誉毀損を禁ずるというシステムはもともと,個人の人格権の保護という観点ではなく、社会秩序維持の観点から設けられたものであり、私人より公人 に対する名誉毀損を重く禁圧することで権力批判を封ずることを目的としてきたことである。 だからこそ名誉既存法理の解釈適用は微妙で難しいのである 「名誉の保護」「書かれる個人の保護」等、一方ばかり考えていると、その先に待っているのは,何にも言えない、何も書けない,何も批判できない世の中であ る。 実例 裁判官Aがいる。 @女性関係はだらしくないが、セクハラの過去がある。しかし、これは訴えられることもなく、酔っていた本人も記憶が無い。 A「判決が厳しい」ことを報道されたことがある。 B次期の移動では期するものがある。 C某社の株を便宜供与された。 このような例の場合、何の低下が名誉毀損にあたるのであろうか? 内部的名誉、外部的名誉(社会的評価)、名誉感情(主観的名誉)さらに虚名的名誉の「品行、徳行、名声、信用などの人格的価値について社会から受ける客観 的評価を違法に侵害すること」と定義される。具体的には社会的評価の低下をまねいた事実である。 もちろん、 現実的には、社会的評価自体が成立するのか?という現代的な問題がある。 さらにプライバシー権や「敬愛追慕の情」「報道されない権利」など、混同して裁判所が名誉毀損としていることは、市民感情をそそろうとするもので、この国 の権利状況を見るに意義深い。 刑法上では 刑法上では「事実を適示するもの」が名誉毀損罪であり、「事実適示」のないものが侮辱罪になる。 侮辱罪は法人への侮辱にも適用されており、名誉感情を保護法益にするものでなく外部的名誉と考えるべきである。 その上で、刑法上にあっても「故意」「過失」の別なく、「(たとえ誤信としても)確実な資料、根拠に照らし、相当な理由ある場合」のみ免責される。 表現の自由の重要性に鑑みるとき、このように故意または過失による行為まで処罰することは妥当であろうか。国家が強制捜査権や刑罰権を背景に言論の責任を 追及するといった事態は,表現の自由に対するこれ以上ないほどの脅威である。まして対象は公的言論なのである。」公的言論の自由を可及的に保障するという 観点からすると、前記最高裁の免責要件は厳しすぎるといわざるをえない。今後再考されなければならない事柄であると私は思う。 |
下層記録による仕事さがし!
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らわ美術館・岩波書店「創刊号のパノラマ」2004 岩波書店の雑誌創刊号コレクション2900冊から約1500冊の表紙の「視覚的魅力」を、発行年度順にならべたら・・・ うらわ美術館「創刊号のパノラマ〜近代日本の雑誌・岩波書店コレクションより」展2004のカタログを眺めている。2900冊の慶応3年1867年から敗 戦後1951年までの「創刊号」を中心にした旧「津田・真誠堂津田書店・神田南神保町7」コレクションは、1950年代に岩波書店に所蔵されていた。 美術展図録に「クリック!」をすれば実寸に拡大するのではないかとばかりに、同じサイズで表紙が年代順に並べられている。 しかし、書店での平積み状態とは違って図録には並べられている。雑誌の実サイズはA4,B5と決まっているわけでもないのだが、カタログ上には拡大・縮小 して同サイズになった雑誌の180ピクセルX120ピクセルぐらいのザムネイルが並べられている。 (実寸サ イズは、巻末の雑誌名索引に出ている) (これは奇妙な感覚である) 小さな書店でも、雑誌は「男性誌」「女性誌」「スポーツ」「ビジネス」など分類され、平積みだけでなく棚に並べられることで区別をつけるのだが、ジャンル や出版数の大小を問わず、表紙だけのコレクションが年代別に並べられているのである。 分類もなく、発行部数や雑誌の評価も問わずに並べるのだから、現在では書店にはない学会誌や同人誌、広報誌、政治・宗教結社誌なども同列となっている。 「べらむらべ」東京酔生社/表紙:小川芋銭1905は腕まくりの江戸っ子の表紙なので雰囲気は伝わるが、江戸趣味の雑誌かどうか? 「異花受胎」大阪・異花受胎発行所1913は、右下に小さくヌード像が入っているが、なんであるかと聞かれても想像できない。 雑誌の厚さがわかるわけもなく、時代の匂いを感じる紙質も逆に表紙のデザイン・ワークの一部としてあるかのように見えてしまう。 なかを広げて確かめることもできない「雑誌表紙」は雑誌のコンセプトの一部でしかないが、必死にコンセプトを伝えようとする、雑誌名、発行社などを視覚で くるんだ「図像」「雑誌名ロゴ」デザインでできあがっている。 (初期のワープロ型デザイン) これらの例外となる中・小の活字だけの表紙や、せいぜい枠線だけで囲った「初期のワープロ型」デザインは「戦国写真画報」1894で終わっているようだ。 (今でも学会誌や「哲学」「展望」など、中・小の活字だけの表紙のものもあるが、本来の「雑誌名ロゴ」は、その雑誌のためにスペシャルにデザインされるも のであった。下記を参照) (立派な雑誌名のロゴは最初から) 同じ、文字だけのレイアウトであっても、達筆な和筆やペンガキにによる雑誌名の和風体のロゴ、洋風ゴシック体の雑誌名のロゴを中心に据えるデザインが初期 から多用され ているのは、興味深い。 「日本地震学会報告」1884「国民の友」1987など、ハットにコート、紳士にチョビ・ヒゲのはねあがりを強調した雑誌名のロゴが、文字だけのレイアウ トでも時代 にふさわしいものにしている。 (カタカナ雑誌は?) カタカナ雑誌では「ハマユミ」福島県・破魔弓社1903「カマクラ」鎌倉・海の会1909、人魚の表紙の「スコブル」東京奇抜雑誌社/主筆:宮武外骨 1916はあるが、カタカナを題名に使った面白さであって、いわゆるカタカナ雑誌とは違うであろう。逆にひらがなの「ゆにてりあん」東京・唯一社1890 は? 「グラヒック演芸」1910、「ジャパーン・マガジーン」1910「テーブル」(東京婦人割烹講習会)1912、猫の表紙の「家庭パック」(東京楽天社) 1912は? 「グラヒック演芸」」は大判雑誌で芸妓、力士、役者らの写真が視覚的にも新鮮と評されている。 「ウオールド」東京巡回図書館1913、「メヂチーネル」東京・メヂチーネル発行所1914、「ビアトリス」東京ビアトリス社/表紙;上野山清貢 1916、「運動界の権威・オリムピア」東京オリムピア社1916「カフェ・バー」東京・秋星堂 1916、「エフィシエンシー」東京エフィシエンシー研究会1917か。カタカナ雑誌らしさを求めるのなら、20年代中期になろうか?写真印刷も本格的に 可能となりコラージュも使いはじめられる。 この時代になると画像も「イラスト」となり、多色印刷のレイアウトへのコダワリは、現在と同じになる。 (使いやすいレイアウト、図像と意味) 図像でシンプルなものに、円(正円)がある。 丸に画像「西洋ポンチ絵」で「団団珍聞」1877 丸に文字「万国新聞紙」1867 丸に画像「ススキに月」で「むさしの」1901 丸に画像「湖水と山」に学生服、はかまの男女をはわせて「少年」1903 丸に画像「西洋神話像」で「商業界」表紙:藤島武ニ1904 丸に画像「ギリシャ神話像」で「時代思潮」1904 円に各世代の男女イラストで囲って「生活」1913 画像「赤丸」に富士をはわせて「大日本」1914 丸に文字「民育」1914 丸い地球に文字「花もみぢ」東京・日本女子大・桜楓会1905 丸い地球で「工業所有権雑誌」1905 なかなか、このデザインは使いにくいようだ。 (意識と格差) 一度はデザイナーなら使ってみたくても、実際に使いたくなるには「それなりの意識」とクライアントの「要求」との格差もありそうだし・・・ 丸に中間色の緑色で富士山に松「市民雑誌」1323 表紙全体を東洋地図。中心に赤丸に白抜き「忠孝之日本」題字:東郷平八郎1921。 赤丸に「富」1919 オレンジ丸に「興道」1919 赤丸に「笑」1915 赤丸だけとは珍しい「日ノ本」1927静岡・太玄銅錬舎 赤と黒でグルグル円を巻いて「擲弾兵」表紙:酒井亮吉1927 (確信犯の丸) 30年代になると、使いにくい赤丸を使うのは「確信犯」になってきている 赤丸に図象は極東地図で、人類一同主義「愛霊」東京愛霊社1935 オレンジ丸に文字「峠」中里介山個人誌1935 (敗戦後の丸) 赤丸に「新年号」と入れた「相撲」(復刊)1946 緑葉の円の中央に「宝石」」1946 円の図像はライオンの浮き彫り?「婦人文化」1946 がんばったのは竹久夢二で、丸に画像木版+文字「新j評論」1914で、この丸を裸身ひげ・長髪が担ぎ上げている。 ハートに文字「同志」1921も笑えるね!! 「青年と日本」1917も、地球儀を持っているぞ! (画像と動物) 動物では「滑稽」1891がフロックコート姿の馬に振袖姿の鹿。 「少女世界」1906の「鳩と和服少女」 ギリシャ風に天馬と牧童「学生」1910 あひるが三羽「若葉」東京・日本女子大付属高校・若葉会1911 先にも触れた、猫の表紙の「家庭パック」(東京楽天社) 1912 「テーブル」(東京婦人割烹講習会)1912は池の鯉のアップ。 羊2頭で「受験世界」1913 ギリシャ風に天馬「我等」1919 カラス?羽ばたく赤丸に「富」1919 天馬「現代」1920 燕と子燕,巣「小学校と家庭」1926 動物園の象の写真で「教育画報」1926 競馬雑誌は「馬」を使う 「Horse Journal」1925 「競馬ファン」1926 軍馬は、また違った扱いができるようだ。 (天馬・鷲・駱駝) 赤丸に天馬「行進」東京青年団行進団1924 赤円に馬で「東亜」南満州鉄道東京経済調査局1928 赤丸に天馬「青年訓練」帝国青年訓育会1926 鷲がいるぞ 「次の時代」1925 ライオンが出てきた。 「国際社会タイムス」「関東」1925「純正輿論」1925 画像はないが、雑誌名が空想の動物「大鵬」」」赤化防止団1925 これも大鵬か?「神道学雑誌」1926 鷲が爆弾を持って「ドイツ公論」1941 駱駝であろう「大陸」1938。川端竜子のデザインは、下部に駱駝を座らせ、上部に星座をあしらう。 (イラスト) 飯田橋のトッパン(印刷)博物館?で「キング」か「戦旗(少年戦旗)」?いずれかの軍艦のイラストを見たが、すばらしいできあがりであった。不鮮明で申し わけないのだが、軍艦だけのイラストであれば「キング」で、その軍艦の水兵が赤い腕章をつけていれば「戦旗(少年戦旗)」なのだが、記憶が薄れている。 (ルビ付きと旧漢字) 雑誌の読みやすさを決めるのは活字である。同じく、飯田橋のトッパン(印刷)博物館?で、漢字規制もなく旧かな使いという条件の悪さを、見事に読みやすく している戦前の総合雑誌を見ることができる。肉筆の力感をベースにした旧漢字のフォントは読みやすく、振られているルビまで視線の流れを妨げない。 |
【多
くはわしより若い】裏切り者サルマンの アイゼンガルドを廃墟にした木の人 ・・・だがトロルというのはというのは本来偽物でな、大暗黒時代に敵が作ったエントのまがいものにすぎん。オークがエル フのまがいであるのと同じことよ。わしらはトロルより強い。わしらは大地の骨でできておる。 わしらは岩であろうと木の根のするように引き裂くことができる。トロルよりは速い。ずっと速 いぞ、わしらの心さえ奮起すれば!もしわしらが切り倒されなければ、あるいは妖術の火で打 ち滅ぼされたり吹き飛ばされることがなければ、わしらはアイゼンガルドをずたずたに引き裂き、 その壁を砕いて砂利石に変えることもできるのよ。」 「だけど、サルマンはそうはさせまいとするでしょうね?」 「ふむ、ああ、さよう、そうするじゃろうよ。そのことは忘れとらん。実のところ、そのことに ついて長いこと考えぬいた。だが、よいかな、エントたちの多くはわしより若い。木の命にして 何代も若いのじや。 このかれらが今やみんな奮起してしまった。かれらの心はみな等しく一つの 事、アイゼンガルドの破壊ということに向けられておる。だがかれらは間もなくもう一度考え始 めるじゃろう。いくらか気持ちも鎮まろう。 夕べの飲物を飲む頃にはな。さぞかしみんな喉が渇く ことじやろうて!だが、今はかれらは歌いつつ進軍させよう!行く道はまだまだ長い。考え る時問もある。こうして動き出しただけでもたいしたものよ。」 木の鬚は歩き続けまし古た。みんなと一緒になおもしばらく歌い続けながら。しかし一時の後、 かれの声は次第にかすかな呟きとなり、ついにはふたたぴ黙りこんでしまいました。ピピンはか れの年老いた額に皺が寄り、ふしこぶができるのを見ました。とうとうしまいにかれが面を上げ ると、ピピンはその目に悲しげな色が浮かぶのを見ることができました。それは悲しそうではあ りましたが、不仕合わせそうではありませんでした。双の目には光がありました。まるでかれの 思考の暗い井戸の奥深く緑の焔が沈んでいるかのようでした。 「わが友よ、無論大いにあり得ることよ。」かれはゆっくりいいました。「今わしらは、破滅に向 かって進みつつあるかもしれん。それは大いにあり得ることよ。エント最後の進軍よな。そうか といってひきこもったまま何もせずにおれば、破滅のほうが、遅かれ早かれわしらを見つけるわ い。この考えはもうずっと前からわしらの心に育ってきておった。だからこそわしらは今こうし て進軍しておるのよ。なにも今になってあわてて決意したわけではない。ところでせめてエント 最後の行進だけでも歌に作る値打ちがあるかもしれぬ。ああ−。」かれは嘆息していいました。 「わしらはこの世を去る前に他の人たちを助けてあげられるかもしれぬ。それにしても、わしは 歌の中に歌われるエント女たちとのことが本当になるのを見たかったのう。フィンブレシルにも う一度切に会いたかったのう。だが、わが友よ、歌というものは木と同じで、それぞれの時が到 ってはじめて、それぞれの仕方で実が生るもの。時には時機を得ぬままに枯死することもある。」 エントたちは非常な速さでどんどん歩いて行きました。 |
冷たい荒れ地が わしらの手を噛み、 足をかじるよ。 岩と砂礫は 古い骨のように 肉っ気なしだよ。 だけど池と流れは、 湿ってすずしい。 足にいい気持ちよ。 この上ほしいものは‐‐ 「ほう、ほう!わしらのほしいものは何かよ?」 息をしないで、生きていて、 死んでるように、冷たくて、 喉かわかぬに、飲んでばかり。 鎧着てても、がちゃつかぬ。 乾いたところで溺れ、 島を山と思い、 泉を吹き上げと思い、 滑らかで、きれいなもの、 そいつに会えたら、うれしいね。 わしらのほしいのは、ただ一つ、 汁気たっぷりの ―さかな |
●●種を粉に挽いてはならない
ケーテ・コルヴッツについて 彼女の初期の版画シリーズである「織工」はドイツでの歴史的な労働者の蜂起でした。この歴史的事実をコルヴッツは版画とした画家でした。ベルリンでの内職婦人の悲惨な状況を訴えたポスターや党指導者の暗殺を直視した仕事をしています。1933年、ヒトラーの首相就任、ナチスの一党独裁体制確立により、抽象美術および前衛芸術そして表現は、「退廃芸術」とされ、博物館から閉め出され、 ケーテ自身も公職を追われ、作品の展示が禁じられました。 第一次世界大戦で息子ペーターを戦地で失い、第二次世界大戦では孫を奪われたコルヴィッツは、終戦直前の1945年4月に死にます。 ケーテ・コルヴッツの展覧会では、このファシズムと戦争の時代に、発言・発表を禁じられた芸術家が描き連ねる「死のシリーズ」が続きます。 私は、‘コルヴィッツ展”が開催された町田市立版画美術館を歩いています。 薄墨に印刷された「水の中の死」、突然掴みかかる「死」などです。弾圧と年齢、歯軋りを重ね合わせた作品が続きます。なにもできない老婆に怯えるファシズムが、彼女の肩につかみかかろうとしています。 ![]() 一九二九年の世界大恐慌から後一九三三年ナチス独裁が樹立するころ、ケーテの生活はどんなふうであったのだろう。シュペングラーが「婦人は同僚でもなけれ ば愛人でもなく、ただ母たるのみ」という標語を示した時、母たるドイツの勤労女性の生活苦闘の衷心からの描き手であったケーテ・コルヴィッツは、どんな心 持で、この侵略軍人として生産者としてだけ母性を認めたシュペングラーの号令をきいただろうか。その頃から日本権力も侵略戦争を進行させていてナチス崇拝に陥っ た。ケーテの声は私たちに届かない。 「ケーテ・コルヴィッツの画業」に宮本百合子は書いています。 〔一九四一年三月。一九四六年六月補〕 この文章には[追記]があって 一九五〇年二月、新海覚雄氏によって、「ケーテ・コルヴィッツ――その時代、人、芸術」という本があらわされた。 一九三三年、ナチスが政権をとってから第二次大戦を通じて、ケーテはどうしていただろうというわたしたちの知りたい点が、新海氏によって語られている。 それによると、ケーテ・コルヴィッツは一九三五年、ナチスへの入党をこばんだために、ヒトラー政府から画家として制作することを禁じられた。当時ケーテは 六十八歳になっていた。彼女から制作と生活とを奪ったナチス・ドイツが無条件降伏したのは一九四五年五月であり、ケーテは、人類史が記念するこのナチス崩 壊の日を目撃してから二ヵ月めの一九四五年七月に、ドレスデンで七十八歳の生涯を終った。 ナチスの迫害のうちにすごした晩年の十年間が、ケーテにとってどのような時々刻々であったかということは、およそ想像される。それでも彼女はくずおれ ず、しっかりと目をあいて恐ろしい老齢の期節をほこりたかく生きとおした。ナチスの降服した年の五月、ケーテは、どんな思いにもえて、ドレスデンの新緑を 眺めただろう。 としています。 しかし、宮本と同じようにファシズム下にあったコルビッツの声は、伝わってきます。この暗い時代の「死のメッセージ」の続きに コルビッツは、とんでもない老婆の鮮明な自己解放の核心を刻み込んでいました。 私たちは美術館の部屋を曲がり、角を曲がり、暗い気持ちの時代を焼き付けさせながらも、町田市立版画美術館の最後の展示となる 一枚の版画の奇跡と復活の確信を時代をこえて共有します。このコルヴィッツの「遺言」でとなった作品《「種を粉に挽いてはならない」》が、時代に向かい合う普遍的なメッセージを示していることを見る! すでに齢77歳にならんか・・・筆を折られ、発表の機会を奪われても、鮮明な意志を見る! 女が腕の下に子どもたちをしっかりと抱え込んで守っている。 ![]() 《「種を粉に挽いてはならない」》 1941年末 リトグラフ(転写) ケーテは孫娘のユッタに次のような言葉を残したという。「いつか一つの理想が生まれるだろう。そしてあらゆる戦争はおしまいになるだろう。 ― この確信 をいだいて私は死ぬ。そのために人は非常な努力を払わねばならないが、しかし、かならず目的は達成するだろう。平和主義をたんなる反戦と考えてはならな い。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのだ。」 |
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