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某月某日



(葬儀のこと)
今日訃報が来たので泣いたという、まだ涙の顔の話につきあった。


四十台半ばの急逝であったというが、お店にとっては、バイク乗りの薄汚れた学生時代からのお客様であった。
なかなか、この訃報というのは、お店にとっては難しいところがあって、個人的にもウマあった二十年以上の付き合いであっても、「親族」でも「仕事上」「勤 務先」でもなく、「地域の友人」でもないのである。
極端なところ、家族ぐるみで深いお付き合いでもないかぎり、この極めて希有な友情(実際には、若者の老店主夫妻へ尊敬の念が二十数年続いたのだろうが) は、通常は、訃報もこないのである。


死者のいきつけの店舗だからといって訃報は送らないのである。商業というものの片面を物語るようなできごとである。
今回は、毎年必ず交換されていた年賀状(老店主の店名は、XX酒店ではなく、XX商事であったことが良かったのか?)がベースで送られたのであろうと推測 される。

または、若くして死んだ社長が、彼の会社経費で中元歳暮に(もちろん、彼の飲み代ぶんも)老店主の店を利用したことから、会社取引名簿にお店が登録されて いたか、であろう。

黙祷

(店舗改装)

知らない間に店舗が改装になっていることがある。新陳代謝のときがきた。
新しい製造器具や大型冷蔵庫などがバックヤードに導入されていることにお客様は気がつかないのが普通であるが、この店舗改装にあわせて、導入・交換された りする。

一般的に新規改装の後、1ヶ月はお客様の絶えることがない(もちろん、この1ヶ月間のマーケティングは十分に準備され、修正され、採算よりも、まず集客に 専念される)ように企画される。

業種によって「閑散期」は違う。

逆に、こまめに改装は行っているのだが、お客様が気がつかないこともある。
この場合、店舗のイメージを変更せずに、実質の変更を行っているのである。
たとえば、照明を明るくすることは簡単なことのように見えて、大変な努力を要求される。
一部だけを明るくすると、店内の商品バランスが悪くなるのである。
(ここが、安直なコンサルタントとは違う仕事!)
お客様にとっての感覚を第一に、、、これが商店街店舗の基本である。




某月某日

商店街の興亡の仕組みは都市工のテーマとなっていて、大型店の影響やビジネス・ビルの通りへの進出による変化のデータを多く見れる。
現在の最大の問題は、出店ではなく退店である。
これから、このようなサイクルの問題として語られるだろう。

はたして、昭和初期に作られたターミナル百貨店が半世紀をこえても生き延びているにも関わらず、この十数年にできあがった郊外型大型店は半世紀生き延びら れるのであろうか?
(消費者の多くは、自分の愛用店が何年前にできたものでも、わからないことも多い。)

この時代に、商店街では、駐輪場が話題になっている。



(駐輪場をめぐって)
半径1.5Km、徒歩で30分以内にJR.山手線、私鉄、地下鉄の多数の駅が存在することの地の利を、この町は十二分に享受してきた。


もちろん、この町にとってみれば、同じような近隣の商店街の競合があり、なにもこの商店街だけがこの立地条件で発達してきた、などとは言えない。

逆に、このような都会の条件からいえば、低くランクされてきた歴史があるらしい。
しかし、私の住んでいる田舎の町から半径1.5Km、徒歩で30分以内には、私鉄、地下鉄の駅はひとつもない。

(駐輪場その2)
この十数年、この町では自家用車の保有率が下がる一方である。それは、老人が増えているからでなく、若年シングルや若年ダブル(ただし、若年ファミリーと はい かない)層の転入が続いているからである。
不況のせいだというと失礼かと思うが(不況に)、都心にdoor TO doorで行ける距離としては低価格であるといっても、駐車場とさらに
転居の頭金つくりができるほど世の中は甘くない。そこで、近場で安心して、ゆっくりできる場所へ、またちょっとの距離は自転車で走る人々があふれていく。



さて、問題です。

このような街にとって駐輪場というのは何でしょうか?
ターミナル駅までも自転車で十数分となると、朝から晩まで停車しっぱなしの駐輪問題の多くは、ターミナル駅側の問題となり、朝夕の通勤道路である商店街に とっては、このような通勤・通学型の駐輪は、あまり問題ではないこととなる。

日常の買い物のための店舗前での駐輪が問題であるから、つまり、狭い道路幅とはみ出し陳列が問われていることになる。

▼そこで、提案。
駐輪をいうよりも、安心できる自転車道路の確保が必要では?
歩道を走るのも嫌われ、大型道路は脇を走るのも怖いのだから。
安心できる路地や、散歩道を兼ねた自転車道路?そんな仕組みを作るしかない!
(サイクリングロードではありません。スポーツサイクリングは海岸の埋立地帯にどうぞ)







某月某日


(今日の昼食)
「おでん定食」というものがある。それを、弁当スタイルで実現するためには
(1)ライス(おにぎりをふたつ握っていった)
(2)スープ(乾燥野菜+濃縮味噌セットで良かろう。くのーる・スープという選択はあるまい)
(3)小皿の漬物
(4)メインディッシュ「おでん」
自家製のおでん種屋は、かつては多くあった。商店街には、「かまぼこ店」などという看板も多い。

つみれ、大根、はんぺん、こんにゃく・・・
いずれにしても、「かまぼこ店」のおでんとコンビニのそれとは違うものらしい。(コンビニおでんは、食べたことがないのでわからない)
以上、今日の昼食であった。


この商店街では、十分に可能である。
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(おでん3個にお銚子一本。焼き鳥2本でワンカップ)

(北風が吹き出すと誘われる〜)

(焼きたての竹輪を食べたのは、いつのことだったろうか?竹串を抜いたばかりの竹輪は)

(海のある古い町並みの基本行動。敦賀の焼き鯖は、北陸線のビールの友)


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お弁当を買い求める昼休み、この十日間、毎日違った店で<惣菜><弁当>買い求められるのは快感であった。コンビニを利用しなくてすむことも、快感 であった。

ほんとに
おいしかったもの
充実感にあふれたもの
(1)おでん屋の魚の天ぷら+白いキツネ
(2)油ののったサバ焼き弁当
(3)高野豆腐のキノコまき
(4)中華料理店の作っているギョーザの持ち帰り
(5)肉屋の肉弁当
(6)伝統ある惣菜屋のビーフカレー弁当



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(サクサク音のするコロッケ)
さて、西洋では、音のするコロッケは(音を出して飲むスープのように)
エチケット違反なのかね!しかし、コロッケをかむとサクサク音がする!
うまい!
このような感想を述べたところ懇切丁寧な説明があり、僕も納得してしまった。
うまいのには理由があった。
総菜屋のコロッケ、肉屋のコロッケ、家庭のコロッケ、洋食屋のコロッケ、料理店のコロッケ、冷凍のコロッケを、同じものとしてみていた僕が間違っていたの だ。
もちろん、油吸い取り紙の利用法や判別、揚げ油の分析も聞かせていただいた。
しかし、本当のおいしい理由は・・・
これはネットでは書けない!
どうしても知りたい人はメイルで!BBSで!オフラインで!

おいしい商店街の総菜屋の実力を知らないことは、文明の否定だ。




某月某日

(空の民は何を見ているのか?)
このような都会型の商店街の場合、天敵は大型店であり、またミチを橋のない大河のように切り刻む複数車線の幹線道路で
ある。
さらに、現場を見るまではよく理解できないが、実際に買い物行動を阻害するものビジネス・ビルがある。デパートの横にある銀行が酷く間抜けて見えることが 日曜日にある。たまに高校生がすわりこんでいたり、シャッターの脇
で恋人たちが時間を余しているビルは、銀行であったり、また土・日には無人となるビジネス・ビルである。銀行は、それでも月〜金は集客力があるから良いと しても、ビジネス・ビルは排他的であり、横を歩くのが好きになるのは難しいものとなっている。

さまざまに捜し求めて行っている「空き店舗対策」なら、まだ商店街の自己責任ともいえるとしても、1階から最上階までのビジネス・ビルは、商店街の対策の 範囲を超えている。

このような「天敵」から逃れた桃源郷のような商店街は数少ない。また、このような「天敵」とまるっきり違う文化・消費行動として商店街は定着されているの である。この文化は、洗練され、きわめて求心力と土着性の強いものであるから、「天敵文化」で暮らしてきた市民が、突如「商店街文化圏」に「都心回帰」し ても、そのままの「天敵文化」消費行動をそのままに振舞うことへの抵抗は、すさまじい。
某月某日


(一年に一回限りの商品)
さて、そんなものがあるのか?
といわれるても、「ある、ある」
祝祭(ヴァレンタインデイも聖人様の祝日ですよ)や
神話、古典、逸話を題材にすることは、古来よりのマーケティングの基本である。
「かまぼこ店」という惣菜・おでん種屋、「煎り豆店」という豆菓子屋、「製麺店」といううどん・そば玉製造販売店でも、事情は同じで、古来からの習慣(販 売実績)を守っている。
さて、何を売っているかって?
それは秘密。

しかし、実際にその日が近づいてくると、お客様のお問い合わせもあり、また市場からも「数量」「品質」の確認があったりして、雰囲気は盛り上がり、
「ノー宣伝でも、数値は昨年並み、(若干下がったのは顧客Aさんの病気のため)、粗利は昨年よりもアップ」という結果が普通である。
店主に聞くと「年一回の製造ということもあって、売上よりも<できあがりの味の評価>が問題です」ということになる。

そのために、すさまじい努力をして東京市場の老舗の担当者と話し込んで、商材を確保したことも、さりげなく触れていたな!

最高に贅沢な季節の逸品を手に入れられたのは、誰!
某月某日

(子供たちの視線)
海辺の団地街のこどもたちが商店街の見学にきた。
この車道・歩道の区別のないお買い物道路で、車・自転車・お買い物カートなどの波をよけながら、かろうじて歩いている。

おぼろげながら、この商店街ストリート文化を感じているようで、なにかしら緊
張している。
心配はいらないよ!
百を超える店舗スタッフが君たちを見守っている。
老若男女の複数の世代が、ここにいる。
運転手たちも、いつもと違うストリートの流れを感じ取って徐行している。

子どもたちの質問!!
「いつ、提灯を飾るんですか?」
「誰が、飾るんですか?」

*********
子どもたちの海辺の団地に季節はあるのだろうか?
かれらを見守っている「街の視線」はあるのだろうか?
海辺の団地に文化はあるのだろうか?
(失礼ないいかただけれども、ここも誉められたものではないとしても)すくな
くとも戦前から二・三代と続く人々が文化を、街を見守ってきている。
身の丈で、商売の利益を生み出している。

*********

(世の中はインキュベーション教育論でいっぱいだ。
中高一貫校創立の下準備で中学校の校区割りが廃止になり、越境自由となった。)
海辺の団地街では中学生に「株式投資体験」をやらせているとのこと。
この商店街の中学校では「商店街体験」を行った。


某月某日
商店街恒例の秋の感謝祭。
村方の祭りと違い、都会の祭りは参加者と見物者との違いが歴然としている。
もちろん、祭りといっても商店街の感謝祭は、「祈り」や「カミ」との交歓があ
るわけでもなく、また遠方からの見物人が期待できるわけでもない。
少数のお客様と少数のスタッフの祭りである。
そこで、お客様と商店街スタッフの役割はどのように組み立てられているのであ
ろうか?
「自らを意図的に露出し、演技し、見ていただく」という商店スタッフの古くか
らの価値観を再確認する場になっていることを見てほしい。
またこの「要求」に対して(あまり高額でもないということもあって)お財布を
開くという行為を儀式的に行うお客様の神事となっているのである。


(神儀の続き)
さて、このような当事者のみしか分かち合えない感謝祭となっているようである。
つまり、参加者と見物者が冷酷に分かれていることが、唯一、この商店街の祭式らしさを演出している所以にもなっているのである。しかし、店頭での販促が二 極化をうみだしているというのも奇妙な話である。

この商店街、なにも特定の客層だけで維持されている訳でもない。もちろん、個々の店舗をとってみれば、かつての若大将のヤング・カジュアル・ショップも、 店主の年齢にあわせて(髪の毛の後退にあわせて)変化してくことは常であるのだが、また一方で、新しい世代感覚の店舗ができているのも事実なのである。

では、参加を拒否されている(本当のところ、あまりに低次元で参加するどころか、歯牙にもかけられていないというのが真実に近いかもしれないが)客層と は?

(空の民)
ここに「空の民」としか表現のしようのない客層が存在する。
「農村型祭儀」や「都会型祭儀」の参加者⇔見物者論でやりきれない人々の群れのことである。それは、また。



稲荷神社は商店街に多く見られる

(狐狸の秘儀)
商店街の祭りは観客を意識しているものであると書いたが、知られていない「狐狸の秘儀」としか言いようのない祭りもないわけではない。
今年もつつがなく各地の商店街でこの祭祀が行われていたが、神社の周辺ではあまりの突拍子な出現に、無視とか思考停止とかの自己防御反応しか起こさなかっ たようである。

商店街周辺でも、繰り広げられる祭祀の見物すら遠慮されてあった。
もともと、多くの神々が多種多様な霊験や神仏混合、糾合でその歴史と信仰を膨らましてきたこと(この國は守護神であり、白蛇の化身だとか観音信仰とか男女 合体佛、法華宗の七五三など、驚かなくなっている多神教空間なのだから、二重三重の複合で、本地はXX佛などという納得が普通なのだ)という形式を肥大化 させている。
一方、その現実は葬式仏教、元旦神道、ケーキのキリスト教という実態であり、管理上だけの生死や日常化された祭祀あって、どのように考えても霊力や富貴の 奇跡を生み出す祈りと遠い現実であるだけに、比較すると、この(狐狸の秘儀)は国内でも位置付けについて悩ましい動物への純然たる信仰なのだ。
小正月のまゆかざりやボイラーマンのかまど祭のような生産神信仰であり、
周辺の無理解を当然として受け止めながらも、それでも当然のものとして守られてきた信仰は業界神とでも評価するしかない。

あげくは、どのようなコジツケか??油揚を奉るという。
このアブラゲ、この国では祭祀名としてではなく、特定の食品名として、商品名として流通しているのである。







某月某日


(夢を持たなくても良かった時代)
商店街の長老と話をした。
このような長期の不況のなかで賦課金を払っていくことが大変だということから話がはじまった。

(賦課金のこと)

楽市・楽座の時代や商工業者が住居・営業場所を指定された江戸時代には(賦課金)は既に業界の標準語になっていた。間口を基本とした税金の体系である。

しかし、もしかすると「手形」「割戻し」などの言葉が発生した平安末期から鎌倉時代にさかのぼる「重要な認識」を再発見できる言葉であろう。
初めて、この「賦課金」という言葉を見たあなたには、商店街振興組合の一員としての会費と思えばわかりやすいと思います。
しかし、商店街の場合、各店共通金額でなく、間口を基本として+坪数・・・さらに大通りに面しているか路地内での店舗か?2階店舗か?などの変数で請求さ れる。
新規開店の場合、預り金としての「加入費」なども請求される。(加入費は、退店時に返金される)。

話が長くなったので、長老との話は、別項にしよう





某月某日


家事と献花は江戸の華、、失礼、、、火事と喧嘩は江戸の華なので。この街にも消防団が存在しているのであるらしい。
「ねじりはちまき、揃いの浴衣」実際に、発砲?撥水?水筒???何か専門用語を使っていたが、ホースの先の大筒を持ったりの訓練もあり、もちろん春夏秋冬 朝駆け夜討ちの出動訓練あり、ロープにぶら下がっての救難訓練。当然、屋根の上の纏まわしなどハードな訓練があるらしい。

半鐘がなると「火事は近いぜ」で出動となるが、実際は「交通整理」が主な仕事とのことと聞いた。


商店街の安全は、このようにして守られている。


某月某日


(媒体)
いろいろな媒体にとってみれば、
a.手っ取り早い「定番取材地」。取材する側、取材される側にとって、なんと言
われようとも「勝ち組」の保守性、優越感、安定感が優先する「定番」

b.もっと卑近な表現では、撮影クルー出動に「近い・早い」「すぐ撮影許可おり
る(なくても強引にできる)」などの取材する側の動物的本能に近いものこと

c.しかし、顔と背景は常に決定的に問われる???

もういいかげんに「勝ち組」の定番はやめよう。
足で歩いて、発掘しろよ!
と言いながら、メディアに擦り寄る弱さ。ごめんなさい。


某月某日


(夢を持たなくても良かった時代)

長老の説によると、賦課金の値下げを目的として、セール経費の縮小や事業の見直しをしなければいけない時期に入っているそうである。
実際に、客数は大幅に減っているのに、イベント経費が同じというのは合点(ガテン)がいかないという不満が多いらしい。イベントの集客数は別にして、その 集客数が売上に結びついていない。

イベントの客層と個店の客層とのギャップが激しくなっている。
経費については、厳しく精査しなくては、個店の了解を得られないだろう、との
ことであった。
しかし、実際にそうなのだろうか?
現在、商店街スタッフの思っていることは、多かれ少なかれ(夢をもたなくても
良かった時代)に生まれた商店主たちの苦労が、結果として「一国一城」を切り取れたこととの対比で鮮明になる。社会全体が右肩上がりであり、新しい商品・ サービス・ライフスタイルが押し寄せ、その刺激に対応することが成長であった時代。

天ぷらを揚げて、電気屋となって、蕎麦を商って「一国一城の主」となった城主たちに、さらに「アパート経営」「マンション経営」「テナント経営」などの 「オーナー」という新しいビジネス分野があった。


「三本柱」と言っているけれども。「日々の商い」「オーナー」「年金〜社会保
障」を天秤にかけたライフ・プランが、現実のものとなっている。
夢を持たなくても良かった時代に勝利者たちは、本当にライフ・スタイルでも
「勝ち組」となったようなのである。


(潮見のマンション)
自転車で15分も走らなければ日常のお買い物はできないだろうマンション〜東京でも、どうしようもないと思われている街なのだ。
もちろん、交通は便利で銀座でワインを飲んで、そのうつらうつらで、東京湾の夜景を見ながら、自室でのごろ飲みに移れる・・・
部屋にさえいれば、下界を見下ろしていれば・・満足できる???






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